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2012年3月 9日 (金)

あの大震災から

一年が経とうとしています。

東北では未だに15万人が避難している状況です。

震災ひと月後、雑誌社に頼まれて書いた原稿です。
整理がつかないまま書いたので今読むとかなり雑ですが、かえって生々しく記憶が蘇ります。
このあともどんどん状況は悪化していきました。

茨城から                           加藤誠洋

専門学校の講師をしている学校の入学式に出席するため、震災後ほぼ1ヶ月が経った水戸市に車で向かいました。
2011年3月11日午後2時46分に発生した巨大地震により県内でもかなりの被害が報告されています。
県災害対策本部が3月29日午後5時半現在でまとめた住宅被害状況によると、全壊309棟、半壊1858棟、一部損壊4万6630棟、床上浸水1394棟、床下浸水545棟の計5万736棟に上ります。
また、13日より25日まで、13日間に、要請のあった県内の28市町村で実施された応急危険度判定によれば、民間住宅は15,863棟の判定中、危険1,561棟、要注意4,684棟と、住宅の被害状況だけでも、今回の地震が過去のどんな災害に比べても最大級の災害であったかがわかります。

 文化財建造物で言えば、岡倉天心が五浦海岸の自邸内に建てた六角堂(国登録有形文化財)が大波によって完全に消滅したのをはじめ、水戸市に建つ旧弘道館正庁(国重文)や偕楽園内の好文亭(復元)などが一部損傷し、昨年重要伝統的建造物群の指定を受けた桜川市真壁地区も、国登録有形文化財の見世蔵や土蔵の屋根瓦が落ちるなど被害が出ています。
他にも、海岸沿いにおける津波の被害や、道路では、行方市と鉾田市を結ぶ鹿行(ろっこう)大橋の橋梁の落下(一人死亡)、各地の道路陥没、県内を通る常磐線水戸線の不通、駅舎の損壊など挙げ出したらきりがないほどで、大きな余震が続く中、原子力発電所損傷による影響などもあり、予断を許さない状況が続いています。
 今回は、地震後から現在まで、県内のそうした状況の中、人災といわれる放射能問題は別稿に期待しつつ(編集部から今後特集を組むということを聞いた。)、話を進めることにします。
私の住んでいる古河市は茨城県の最西にあり、震度は5強と報告された地域です。当時、住まいを兼ねている事務所にいた私は、いままで経験したことのない徐々に大きくなる横方向の揺れ方に、書架から落ちそうになる本を横目に、所員とともにたまらず外に出ました。

この地震ではまず電気が止まりました。夜、普段から防災用品の準備をしておかなかったので、居間に仏壇のろうそくを置き、避難用の食料などを詰め込んだリュックを枕元に寝袋を持ち込みました。家族は電気が通じていた親戚に避難させました。ちょうどタイミング悪く、携帯電話のバッテリーが切れ、情報はカーラジオから逐一入手しました(もっとも、“あのとき”に情報端末が使えたかどうかわかりませんが)。東北や茨城の海岸沿いに大きな被害が出ていて、私の地域は被害が少なかったことを知ります。翌日の昼になって変電所の修理が終わり電気は通じました。夕方、応急危険度判定の要請があり、翌13日に桜川市に向います。
朝、現地に向う途中、渋滞に巻き込まれました。ガソリンスタンドに駆け込む車の列でした。道すがら、屋根瓦の崩落や石積みの多くの塀が倒壊しているのを見ました。
桜川市では伝建地区内の応急危険度を担当しました。この地区は、かつて登録文化財調査で関った建てものも多く、瓦屋根が落ちた建物群を心が痛む思いで判定活動をしました。幸い、瓦屋根が崩落していても、本体に大きな損傷がない建物が多く、修復の可能性を確認して現地を後にしました(真壁地区はこの6日後にもこの地域に深い関わりを持つ建築史家の河東義之氏と訪れることになり、その後の余震によって、瓦の崩落が進行したことを確認します)。応急危険度判定は、茨城県から建築士会が要請を受け、県内会員の応急危険度判定士に召集をかけました。しかし被災の当事県であったり、判定士への連絡も通じず、本部は人員確保に苦労したようです。本来、応急危険度判定は、2次災害を防ぐ目的で、出来る限り素早い判定作業が必要です。なぜかそのような状況でも県外からの判定士の受け入れをしなかった県や建築士会の対応には疑問も生まれました。私はこのような状況を見て、個人の判断で、住まう人が、自ら自宅の安全性を判断できる一助として自身のブログやツイッターを使い危険度判定の方法を流し始めました。住まう人の不安を少しでも取り除くためです。

ガソリンスタンド渋滞は、その後もしばらく続きました。また、スーパーには水がなくなり、工場が被災したことなどで茨城名物納豆も棚から姿を消しました。意外にも脆弱性を露見させてしまったのは郊外の大型ショッピングセンターです。県内のとある店舗では、被災の修復に、ひと月ほどかかってしまい休業を余儀なくされました。普段、太陽光や壁面緑化、雨水利用など最新の“エコ”を売りにした店舗故に、地震によって手も足も出せない状況は“想定外”であったでしょう。建築士会の他に、JIA(建築家協会)の動きも紹介します。JIA茨城地域会では、12日に災害対策会議が開かれ、その内容は、茨城地域会のメーリングリストに流されました。その後も逐一、災害対策委員からの情報を受け取っていました。要請は、各地の被害状況把握のための情報提供の依頼があり、会員がそれぞれに立ち回り先の情報を挙げていきました。各地の状況はわかりましたが、それをもって何をするのか、その後、仙台地域への判定士派遣要請などに見られる士会や事務所協会との連携が必要と思われるのに協力体制のない実情など、JIAの対応が行き当たりばったりに感じてしまうのは、私の至らなさでしょうか。

入学式の後、水戸を歩きました。一ヶ月経った後でも、市内のあちこちに震災の傷跡が残ります。カメラを向けて記録を始めた私は、途中で撮るのを中断しました。傷を負った対象物を乾いた視線で追っている自分に嫌気が差したからです。

この震災では、たくさんの大事な人、物、記憶さえも失ってしまいました。
桜がきれいに咲く季節にたくさんの輝く目を見ました。いまは失望の中に少しでも希望が見つけれる努力をしていくことが、私たちに与えられた使命でしょう。

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